まりも日和

先天性腎臓形成不全による重度の腎不全のため、2歳と18日で虹の橋へ旅立った愛犬「まりも」について綴った「まりも物語」(腎不全と闘った642日間の記録)と、2020年8月に我が家にやってきたおてんば娘「ぴりか」の成長記録「ぴりか日記」、ハンドメイドについて書いた「Atelier Marimo」、その他夫婦二人生活の日々の出来事や思うことを綴ったブログです。

今週のお題「〇〇からの卒業」:親子関係の卒業、自分が望む生き方(1)

f:id:Marimotan:20190818152746j:plain

今週のお題「〇〇からの卒業」:親子関係の卒業、自分が望む生き方(1)

こんにちは。

いつも犬のお話を書いていますが、今日は今週のお題に挑戦し、少し違うお話をしたいと思います。私は今、職場で留学生インターンたちの指導をしていることもあり、彼女たちの進路について相談を受けることが多々あります。今日もお昼休みに大学院2年生の中国人留学生の相談を受けました。彼女たちの話を聞いていていつも感じるのは、親子関係、特に母と娘の関係の難しさです。

私が指導しているインターン生は殆どがアジア圏出身の大学院生で、文系はコンサルタント志望、理系は研究者志望の子が多く、将来有望な優秀な女性ばかりです。しかしそんな彼女たちの行く手を阻んでいるのは、実は彼女たちの両親、特に娘を手放したくない母親だと思うことが少なくありません。

彼女たちの殆どは卒業後は日本やアメリカ、若しくは中国で働き、しっかりとキャリアを築きたいと考えていますが、殆どのご両親、特に母親は母国に帰って結婚して子供を産んでほしいと願っています。娘に近くにいてほしいと願う親は多いですし、孫の顔が見たいと思うのも当然の事でしょう。しかし彼女たちは海外の大学院に留学して高度な教育を受けた女性達、多くの可能性を持ち、自分の人生を切り開く力を十分に持った女性達です。それが能力を発揮して社会に出る前に、結婚や出産をするようご両親から強いプレッシャーを受けるのは、私にはとても気の毒に思えてなりません。

かつて、私も母と激しく衝突した

本人の意思を酌まない両親からのプレッシャーには、若き日の私も散々悩んだ時期がありました。20代の頃の私は仕事が大好きで、実際にそこそこ評価もされており、30歳までに海外生活にもチャレンジしたいと思っていましたが、女の子は結婚して子供を産むことこそが幸せ、早く孫の顔が見たいと思う母は、そんな私に物凄いプレッシャーを掛けてきました。

母からすれば、女の子は結婚するまで実家で暮らすもので、結婚するまでは親の言うことを聞くのが当たり前、子供を産むことを考えれば少しでも若いうちに結婚するべきなのに、全く結婚する気が無く、年中仕事に明け暮れて一人暮らしや海外暮らしの計画を立てている私など論外だったのでしょう。「いつまで勝手気ままに生きている気だ!」「早く結婚して親に孫の顔を見せなさい!」と顔を合わせるごとに噛み付いてきました。

でもそんな母の言葉を私は徹底無視して仕事に邁進しました。私の両親は私が小学生の頃から仲が悪く、私は母から毎日父に対する愚痴を聞かされて育ちました。私は母に、そんなに嫌いなら離婚すればいいのにと何度も言いましたが、経済力のない母は離婚せず、ただ不平不満を言い続けました。

そんな母を見て育ったこともあり、成人した私は結婚より出産より経済的に自立し、不平不満に明け暮れることなく自由に生きられる力を持つこと、親の束縛や干渉から早く解放されることを最重要視していました。むしろ経済的な自立と自由さえあれば結婚も出産も無くても構わないとさえ思っていたほどです。それでも大学卒業後すぐに家を出なかったのは、大学生活で借りた奨学金の返済があったことと、首都圏など近場で一人暮らしをするよりも、ある程度お金を溜めて、家族の誰も私を追ってこられない海外に脱出することを考えていたからでした。

f:id:Marimotan:20190818151709j:plain

 追いすがる母を振り切って25歳の終わりにオーストラリアへ

そして母と対立しながらの社会人生活が4年目に入った頃、私にはある程度まとまった貯金ができ、遂に実家脱出の準備が整いました。予算の関係から大学院留学は難しかったので、ワーキングホリデー制度を利用してオーストラリアへの渡航を決め、一人で着々と準備を進て行きました。

やがて全てが整い母にオーストラリア行を告げた時、母は大激怒して私を罵倒しました。母は「親に何の相談もなく決めるなんてどういうつもり!」「あんたは親を何だと思っているの!」「お母さんは絶対に絶対に許しませんからね!」と絶叫し、殴られるかと思うほどの勢いで私を怒鳴りつけました。しかし母がどんなに怒鳴っても私の返答は一つ、「私はもう子供ではなく成人。何かを決断するのに親の許可は必要ないし、私の人生は私の物、もう誰の指図も受けない。」それだけでした。

その後、母は叔母たちまで総動員して私のオーストラリア行に反対しましたが、どんなに怒鳴りつけようが親子の縁を切ると脅そうが私の決意が全く揺らがないことを知ると、今度は体調不良で寝込むなど色々と妨害工作をしました。母にしたらさすがに病気の親を見ればオーストラリア行を断念すると思ったのでしょう。しかし私は寝込む母を尻目にビザと片道の航空券を取得し、持ち物の殆どを処分して、帰国予定も全く決めずにオーストラリアへ旅立ちました。

親離れ子離れ

そんな風にしてオーストラリア行を強行した私と母の関係はその後どうなったかと言えば、今はちゃんと適切な距離感を保ちつつ、良くも悪くも無いところに落ち着いています。

私の渡豪当初、母は「あんたには海外で生活できるような能力はない!」「何かあっても絶対に助けない!」と何度も電話で私を罵りました。しかし私が現地で就職し、良き友人や助けてくれる人達に出会い、親の助けなど全く無くても楽しく暮らすようになると、母は、もう娘は親の言うことは聞かない、娘の人生に口出しすることはできないと悟り、私が決めたことに口出しすることもなくなりました。

離婚することは無いまでも、父とは不仲で途中から別々に暮らしていた母は、私が自分の人生を自由に歩き始め、自分から去ってしまうのが寂しかったのでしょう。しかし母が怒鳴っても泣いても倒れても私が振り向くことなく渡豪して新しい生活を始めた時、やっと母は子離れできたのだと思います。

そしてその後の母はといえば、新しい趣味や友人もできて、驚いたことに兄の結婚を機に長い間不仲だった父との関係も改善されて、たまに食事をしつつ私達がまだ幼かった頃の思い出話に花を咲かせるまでになりました。そして父が一人で暮らしていた家にも出入りするようになっていき、その穏やかな関係は父の急死まで続きました。

私のケースはあくまで一例で、彼女たちにも必ず当てはまるわけではありません。しかし成人した子供に対し親が必要以上に干渉してくる場合、多少強引でも子離れできる環境を作ることは、決して悪い事でも親不孝でもなく、結果としてはお互いの関係改善につながることも少なくないのではと思います。 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村