まりも日和

先天性腎臓形成不全による重度の腎不全のため、2歳と18日で虹の橋へ旅立った愛犬「まりも」について綴った「まりも物語」(腎不全と闘った642日間の記録)と、2020年8月に我が家にやってきたおてんば娘「ぴりか」の成長記録「ぴりか日記」、ハンドメイドについて書いた「Atelier Marimo」、その他夫婦二人生活の日々の出来事や思うことを綴ったブログです。

「記憶に残っている、あの日」

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街の中心にあったアレッポの時計台

はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」

「記憶に残っている、あの日」

こんにちは。今日はお題の「記憶に残っている、あの日」について書いてみました。

記憶に残っている日はたくさんありますが、今回は旅先で食中毒を起こして入院したお話で、今から10年以上前、まだ内戦が始まる前のシリアを友達と2人旅していた時のことを書きたいと思います。

その頃私は毎年9月に夏休みを取って友人と一緒に10日間程度の旅行をしていました。イスラム系の建造物が好きだった私達は2010年にシリアを旅したのですが、その頃のシリアは本当に平和そのもので、僅か10ヶ月後に長い内戦に突入するなど想像もつかない素敵な国でした。

シリアで食中毒

日本からシリアへの道のりは決して短くはありません。私の場合はまず成田からドバイ経由でダマスカスへ向かいましたが、成田→ドバイが9時間、ドバイから6時間かけてダマスカス空港に到着。そしてダマスカス→アパメア→アレッポと観光して周った後、旅の後半で世界遺産パルミラに向かおうとしている時に、私は食中毒で高熱を出してしまったのです。

その時のシリア旅行では、一緒に周遊する英語のガイドさんと移動用の車、運転手さんを手配していました。当時のシリアは決して治安は悪く無かったのですが、公共交通があまり発達しておらず移動には車が必須。しかし私も友人もペーパードライバーだったので、多少経費は嵩んでも車と運転手さんは絶対に必要です。経費を含めて色々検討した結果、車と運転手さんと英語のガイドさんがセットになったプランを選択したのですが、ここでケチらずガイド付きのプランを選択したことが、後に私と友人をピンチを救うことになりました。

高熱で気を失う

旅の5日目、パルミラまで1日がかりのドライブの途中、私は急に気分が悪くなって車を降りると激しく嘔吐し、ほんの数分ですが気を失ってしまいました。

ガイドさんは直ぐに救急車を呼んでくれましたが、広大な砂漠の地域だったので最寄りの病院までは100km以上離れています。ガイドさんは救急隊員と相談し、救急車も医師を乗せて全速力でこちらに向かうので私達も病院の方に走り、途中で合流することに。

それからどの程度の時間走ったのかは分かりませんが、かなり走った後で救急車と合流し、私は救急車に移されて医師の手当を受けながら病院へ向かいました。友人はガイドさんと一緒に救急車の後を着いてくることになったのですが、友人は、いつも通訳をしていた私が倒れてしまい、心細くて寿命が10年縮む思いだったそうです。

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アレッポのマーケットで

シリアの砂漠で入院

やがて病院に到着して血液を取ったり体温を測ったりした後、40代ぐらいの優しそうな医師が高熱で意識朦朧としている私に今の状態を説明してくれました。医師によると私は恐らくランチに食べた何かで食中毒を起こしたらしく、今夜一晩点滴を受ければ明日には退院できるだろうと言って、「僕の英語で通じるといいんだけど・・・」と私を落ち着かせようと穏やかに話てくれました。

とはいえ、激しい嘔吐は勿論、熱が39度を超えてしまっている私はどうしていいか分からず、かなりパニック状態です。狼狽える私に医師は「確かに高熱だし苦しいだろうけれど、多分、明日にはかなり楽になるし熱も下がる。今夜は私と英語の話せる看護師が一晩泊まるから、心配はいらないよ。」と言い、友人にはホテルで待つよう指示しました。しかし友人はシリアの砂漠で一人ホテルに泊まる気にはなれなかったようで、私と一緒に病院に留まることに。

ガイドさんは私の海外旅行保険の手続き等、様々な手配を行い、大きい荷物を宿泊予定のホテルに運ぶだけでなく、半泣きにになっている友人を宥めて近所の食堂で夕食を摂らせるなど、不安がる友人のフォローに尽力し、飲み物を買ってきたり友人が病院に一泊するために必要なものを調達してくれました。

はっきり言って私はこの夜のことを朧げにしか覚えていません。でも医師と看護師さんが何度も様子を見に来てくれたこと、途中、点滴の針を刺した場所が痛くて看護師さんに刺し直してもらったこと、そして病室の外が妙に騒がしかったことを覚えています。友人は病室の外が騒がしくて結局一睡もできなかったと言っていました。

後にガイドさんになぜ騒がしかったのか聞いたところ、このシリア砂漠の街にある病院にとって私は創立以来初めて救急搬送された日本人だったため職員の間で話題になり、それが入院患者にも伝わって大騒ぎになってしまったんだとか。皆さん日本人を一目見たくて病室の外に集まってしまったということでした。

翌朝

翌日、目が覚めると体は怠いものの吐き気は止まり熱も下がっていました。様子を見に来た医師は「若いから回復が早い!」と言って、もう大丈夫だろうから午後には退院していいよと言い、その隣では友人が涙目で私を見ていました。

そしてお昼にガイドさんに病院まで迎えに来てもらって退院したのですが、その時医師は何かがびっしり書いてあるA4ぐらいの大きさの紙を渡してくれました。そこには私の症状と施した処置、使用した薬について書き記してあり、私にこの先シリアを旅している途中で具合が悪くなったら、近くの病院に行きこの紙を医師に見せること、体調が良くなっても処方した薬は最後まで飲み切ること、消化のいいもの以外は決して口にしないことを徹底するようにと指示し、笑顔で「良い旅を!」と薬を手渡してくれました。

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ISに破壊され、今は修復中のパルミラ遺跡

「笑顔で『ありがとう』と言えばいい」

ガイドさんの迎えを待つ間、私は友人に昨夜の話を聞きました。彼女によれば救急車に乗り込んできていた医師は、夜中に何度も私の様子を見に来ただけでなく、不安そうな友人にも話しかけて、「お友達は大丈夫だよ。明日には元気になる。」と何度も声をかけてくれたそうです。彼は英語が話せる医師が彼しかいないということで当直でもないのに一晩付いていてくれました。看護師さんに至ってはその日はお休みだったものを、やはり英語を話せるということで急遽出勤してくれたということです。医師も看護師さんも不安そうな顔で一睡もしない友人を気遣って、彼女に色々と話しかけてくれていたのでした。

やがてガイドさんがやってきて医師から説明を聞き、遂に病院を離れることになった時、見送りに来ていたドクターと看護師さんに、私は「たくさんご迷惑をかけてすみませんでした。何とお礼を言ったらいいか解りません。」とうつむきながら言いました。すると二人は「笑顔で『ありがとう』って言えばそれでいいんだよ。」と優く微笑み、私は感極まって思わず泣いてしまいました。

あの病院は今・・・

私が旅行した10か月後、シリアでは今も続く内戦が始まり、パルミラ遺跡はISに爆破されてしまいました。今は修復作業中とされていますが広大な砂漠に聳えたつ巨大な遺跡群を修復するのは大変困難な道だと思います。パルミラ遺跡のすぐそばの街にあったあの病院はどうなったでしょうか。あの医師は、看護師さんはどうしているのか、無事でいてくれることを祈るしかありません。

シリアのニュースを見るたびに、大きな被害と悲劇に胸が痛みます。私に出来ることといえば、僅かばかりの難民支援の募金ぐらいしかありませんが、いつの日かシリアに平和が戻ることを心から祈っています。

 

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